非のつく“日常”の事件の話


 昼過ぎから降りだした雨は、夕方になって本格的なものに変わった。
 港署内の遺失物からちょろまかしてきたビニール傘を差し、大下勇次は水溜りを器用に避けながら軽やかに歩いていた。雨が多いのは農業にはいいことなんだよな、と自分には一切関わりないところで慰めを見出し、時折跳ねる泥水に舌打ちする。
 何と言っても高価なスーツであるから、――たとえそれが犯人追跡の途中であっても――汚れるのだけは勘弁してほしい。
 理想は軽やかなステップを踏みながら、二〜三発のパンチ、プラスキックで相手が倒れてくれること、である。走るのも出来れば御免だ。もっとも相棒の鷹山敏樹と異なり、走る姿には自信のある勇次であったが。
 ――俺ってスポーツマンだし。
などと酒・煙草をこよなく愛し、誰より不健康な生活を送っているにも関らず、そう言って憚らない男である。
 勇次のアパートは署から歩いて通える距離にある。火災で一時期使えなくなったが、今は改装も終え、幸い家賃が上がる、などという恐怖の事態もなかったのでそのまま住んでいる。狭いが、風呂もシャワーもトイレもきちんとついている。まあ、快適といっていいだろう。
 だからこの日も、歩いてアパートへ戻った。近道に、公園を横切ろうとして――思えば、それがいけなかった。
 雨が降っているからして、当然人の姿はない。誰もいない公園というものは、妙に物悲しいものだ。それを感じて、俺って詩人、とご満悦の勇次だったが、微かに聞こえてきたその音に、ぴたりと足を止め、恐る恐る振り返った。
 ――そこに、それはいた。


「おい勇次」
 背後から声をかけられ、刑事部屋に入ろうとしていた勇次は確実に十センチほど飛び上がった。
 そろそろと首だけ巡らすと、相棒が怪訝そうに眉を寄せている。
「何だ、何か後ろめたいことでもあるのか?」
「べ、別にっ」
 敏樹は勘がいい。勇次もまた動物的とも言える勘の良さを誇るが、敏樹のそれはむしろコンピューターのような冷え冷えとした冴えを見せる。そのコンピューターが、いつもと違う勇次の様子を違和感として捉えた。
「な、なんか用か?」
「昨日の報告書、早く出せって課長がさ。県警行ってるから、戻ってくるまでに書いちまえよ」
「あ、報告書ね。ハイハイ」
 あはは、とどこかわざとらしい笑いを浮かべ、勇次はそそくさと刑事部屋に入っていく。
 その後ろ姿がどうもおかしい。カッコ良さを何より最優先事項にしているはずの勇次であるのに、妙にバランスが取れていない。・・・ズボンのポケットが異様に膨らんでいる。
「何だろうね、あいつ・・・」
 敏樹は首筋を軽く掻いた。何か隠しているのは見え見えだったが、あまり重大なことではあるまい、と判断する。少なくとも誰かの命に関る事態なら、もっと深刻な表情を見せるはずだった。
 勇次の後について刑事部屋に入った敏樹は、その相棒と背中合わせに座り、ペンを取って始末書を書き始めた。銀星会のチンピラ相手に一戦行い、近藤から散々お小言を食らったのはつい昨日のことだ。もっとも銀星会のことでどれだけ叱られようと、敏樹にとっては馬耳東風、いつか見ていろ長尾め、というので効果は見込めない。始末書も、銀星会にはつきものだ。
 一方の勇次は、昨日は敏樹とは別行動で――銀星会関連では、敏樹はほとんど単独なのだが――窃盗犯を吉井と共に挙げていた。久々のお手柄である。
 いつもなら「お手柄だ〜」と嬉しそうにはしゃぎ回る勇次がそれをけろりと忘れている辺り、やはりどこかおかしい、と敏樹は背中で感じ取っていた。
 勇次はといえば、透をからかうのに飽きた薫がちょっかいを出してくるのを、面倒そうに応対しつつ、いつにないスピードで報告書を書き上げると、「お後よろしくっ」と吉井にそれを渡して出て行ってしまった。
 受け取った吉井は、書いた当人以外は読めまいという乱雑な文字を見て眉をハの字にすると、泣く泣く新しい報告書を取り出した。
「怪しい」
 相手にしてもらえなかったのが不満らしい薫は、シャーロック・ホームズよろしく顎に手を当てると、殊更真剣な表情で呟いた。


 港署の裏手は駐車場になっており、パトカーの整備もそこで行えるようになっている。
 事件が立て込んでいるときは、勇次や――ごくたまにであるが――吉井、田中の荒っぽい運転故に仕事も大忙しになることも多々あるが、幸いここしばらくそういう状況ではない。そんなわけで、整備もある程度余裕を持てる。何しろ、きちんと昼食時間に休憩を取れたのだから。これは港署にとっては、驚異であった。
 その人気のなくなった駐車場に、勇次がひょっこり顔を出した。辺りをきょろきょろ見回して誰もいないのを確認すると、素早くその場を離れ、港三○五の後ろへ回った。間もなく廃車になる覆面パトカーである。勇次が壊したのではないが。
 膨らんだズボンのポケットからそれを取り出し、トランクに左手をかけたその瞬間、勇次はハッと身を強張らせた。
 固まったままゆっくりと首を巡らすと、そこには、
「か、薫、に、透・・・」
 殺人犯の張り込みよろしくジト目でこちらを観察している二人に、勇次は頬を引きつらせた。
「な、何か用かな?」
「何を隠しているわけ?」
 薫が目いっぱいの微笑みを浮かべながら、擦り寄ってきた。咄嗟に壁を作り、取り出したものを再びポケットに捻じ込むと、薫からはトランクが見えないようにする。
「な、何もか、隠してなんかいないさ。あははは」
「じゃ、ちょっとどいて」
 薫がひょいと右側から覗こうとすると、そちらがわにさっと移動し、左側に移動するとそれを遮る。
 じろりと睨みつけるのを、勇次はそ知らぬ顔で口笛など吹いて誤魔化す。
「邪魔! 蹴るわよ!」
 ぎょっとし、思わず股間を庇いつつも、
「べ、別に邪魔してるわけじゃねぇさ。俺が行く方にお前が行こうとするだけだろ」
「随分気が合うんですね」
と、透。
「そりゃまあ、付き合いも長いし?」
 あははは、といつもなら決して口にしないような冗談を言ってのけ、わざとらしく高笑いを響かせる。
 と、その刹那、
「ふうん」
 いい加減飽きが来るぐらい慣れ親しんだ声が、背後から聞こえた。
 ○・三秒の速さで振り返る。
 いつのまに後ろに回ったのか、敏樹が立っていた。ふン、と興味なさそうに鼻を鳴らすと、トランクに手をかける。
「タ、タカ! 開けるな!」
 ほんの少し開いたところで、ちらりと敏樹は相棒を見た。その目が明らかに拒否を示している。
 敏樹はにやりとし、取っ手を掴んだ手に力を込めた。
 ――ぎいぃ〜、と軋んだ音を立て、それが開いた。
 勇次を突き飛ばし、中を覗き込んだ薫と敏樹の目に飛び込んできたのは。

 ――わん!

 つぶらな瞳をきらきら輝かせ、今にも「遊んでっ」とばかりに飛び掛りそうな顔をした子犬が、そこにちょこんと座っていた。

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