どくり、と俺の心臓が大きな音を立てた。
「……ルパン?」
 その呼びかけは、相手が返事をすることを期待したものだったのだが。
 たった今まで自らの腹の傷を押さえていた手は力なく投げ出され、俺の姿を捉えていたはずの瞳からは光が失われていた。
 どくどくと奴の腹に穿たれた銃創から溢れ出る血は目に痛いほど赤く。
「…………っ!」
 全身に言いようのない震えが走る。
 脳天をハンマーで殴られたような衝撃。じわじわと胸の奥底から這い上がってくる、認めたくもない認識が、俺の心を冷えさせる。
「下手な……芝居は、よせ……ルパン」
 抱え込んだ奴の肩を揺さぶる。がくがくと揺れる奴の首。
 必死に呼びかけても、もはや俺の顔を見ようともしない、虚ろな双眸。
「嘘だっ……」
 こんなことがあってたまるか。
 奴が。
 俺が生涯を賭けて追い続けてきた男が。
 こんな、こんな簡単に……!!
「嘘だっ……こんな……っ! こんなことが……!」
 不意に目の前がぼやける。頬を伝う、熱い液体の感触。
「頼むっ……頼む、誰か──……!」
 こんなことは嘘だと。
 悪い夢を見ているのだと。
 誰か誰か誰か。
 言ってくれ、夢なのだと。

 頼むから。
 誰か、夢だと、言ってくれ────!!


続・存在の耐えられない軽さ
dream or actual


「──────っ!!」
 自分の上げた叫び声で俺は目を覚ました。
 寝間着が気持ち悪いほど汗で湿っていて、更なる不快感をそそる。
「…は、はぁっ……は……」
 肩で息をしながらゆっくりと室内を見回して、今いる場所を認識する。
 汗でべとつく顔を寝間着の袖で拭い、大きく息をついて、俺はようやく、さっきの出来事が夢であったことを悟った。
「くそ、気分が悪い……」
 よりによって、ルパンが死ぬ夢を見るなんて。しかも、奴の予告日に。
(縁起でもない……)
 俺はごそごそと布団の中から這い出し、シャワールームへと向かった。
 寝間着を脱ぎ捨て、冷たい水のシャワーを頭から被る。
 全身を叩く水の冷たさが、体の奥に澱のようにわだかまる悪夢の残滓を洗い流してくれるようで、俺の頭は次第にすっきりしていった。
 そうだ、あれは夢だ。ただの夢。
 ルパンが死ぬなんて、そんなことあるはずがないのだ。
 決して死なない不死身の男。それがルパン三世という男。
 どんな危機も飄々とくぐり抜けてしまう、くそ憎たらしい俺の宿敵。
 洗いざらしのシャツの袖に腕を通しながら、俺は顔と気を引き締める。
(──今日こそは)
 今日こそは、必ず捕まえてやるからな、ルパン……!!



『銭形警部! ルパンがA地点に向かいました! 指示をお願いします!』
 無線機から流れ出る慌しい部下の声。
 俺は相変わらずのルパンの手際のよさに舌打ちしつつ、無線機の向こうの部下に怒鳴り返した。
「よし、お前たちはそのまま持ち場を離れずに待機しろ! 我々もすぐにそちらに向かう!」
『わかりました!』
 無線を切り、俺は美術館の中に駆け込もうとした。
 ──その時。
 二階から響き渡った連続した銃声が、猛ダッシュしかけた俺の足を止めさせた。
 俺の後に続こうとしていた部下たちが、ざわめきながら銃声がした方向を見つめる。
「何だ、今の音は……」
 嫌な予感が胸の奥から這い上がってくる。その不快感に吐き気すら覚えて、俺は思わず身震いした。
(これは、まるで……)
 まるで、今朝見た夢と同じ展開ではないか?
(──冗談じゃない!!)
 俺は一瞬脳裏に浮かんだ考えを振り払い、建物の中に駆け込んだ。



 俺はすぐさま、現場に駆けつけた。
 すると、撃ったばかりとわかる拳銃を手にした部下の姿が視界に飛び込んできた。
 嫌な予感は更に膨れ上がり、俺の胸を締め付ける。
「ルパンはどうした!?」
 慌しく訊ねる俺に、部下は拳銃を掲げて見せながら、得意そうに答えた。
「ルパンは右の腹部に傷を負いました。この血の跡を辿って行けば、奴の居場所などすぐに……」
 俺は最後まで言わせなかった。床に点々と残る、決して少なくない血の跡を見た瞬間、俺の脳裏でブツッと音がした。
「……誰が」
 次の瞬間、俺は拳を握り締め、部下の横っ面を殴り飛ばしていた。
「誰が発砲していいと言ったァ!? 勝手な真似はするな、馬鹿者が!!」
「け、警部、しかし本官は……」
 鼻血を流しながら抗議しかける部下にはもはや目もくれず、俺は血の跡を追って走り出していた。
(ルパン……!!)
 この出血量だ、奴は相当な深手を負ったに違いない。
 いくら奴でも、そう遠くへは行けないはずだ。
(何処だ、ルパン、何処にいる……!?)
 込み上げる焦燥感に、俺の心臓が早鐘を打ち始める。
 これでは本当に、あの夢と同じだ。あいつが俺の腕の中で死んでいくあの夢と……!
「ルパン!! 何処だ!!」
 大声で呼ばわったが返事はない。
 当たり前か。あいつは泥棒で、俺は奴を捕まえようとしている警官なのだから、呼ばれたからと言ってのこのこ姿を現すはずがない。
「……畜生」
 こんな所で死なせてたまるものか。
 あいつは俺がこの手で捕まえて、法の裁きを受けさせるんだ。
 それまでは決して死なせてなどやらん……!
「ルパン……!」
 再び俺は奴の名を呼んだ。しかしやはり返事などなく、俺は苛立ちを抑え切れずに、拳を壁に叩きつけた。
 その時、壁に取り付けられたプレートが、俺の目に飛び込んできた。

”MEDICAL RELIEF ROOM”

(救護室……まさか)
 俺はそこにルパンがいればいいと思い、また同時に夢と同じであっては欲しくないと思いながら、救護室の扉を開け放った。
「ルパン!! いるのか!?」
 すると、部屋の奥、カーテンの向こうから、弱々しいが笑いを含んだ声が返った。
「やれやれ……見つかっちまったか」
 ルパンの声だ。やはり……ここにいたのか。
 あまりにも夢と同じように展開する事態に、心が冷える。
「ったく、適わねぇなぁ、とっつぁんにはよ……」
 俺はずかずかと部屋の中に踏み込み、勢いよくカーテンを引き開けた。
「いよう……とっつぁん」
 そう俺に声をかけてくるルパンの姿に、俺は一瞬、声を失う。
 蒼ざめた顔に浮かぶいくつもの脂汗。飄々とした笑みを浮かべてはいるものの、どこか余裕をなくしているのが見て取れる。
 何よりも……。
 ベッドに腰掛けている奴の腹部から溢れ出る真っ赤な血。左手で傷口を押さえてはいるものの、その指の間から、絶え間なく血が流れ続けており、奴のシャツとスラックスを赤く重く濡らしている。
「ルパン……! 酷いの、か……!?」
 思わず問いかけた俺に、ルパンは顔を顰めつつ、引き攣った笑みを浮かべた。
「酷いも何も……惨憺たるもんだぜぇ……。こんなチョロい仕事でミスるなんて、よ……」
 ルパンの言葉に、俺はかっとなった。
「馬鹿!! 俺は怪我の具合を訊いとるんだ!!」
 怒鳴りつけながら、薬の瓶が並ぶ戸棚を乱暴に開ける。
 図らずも夢と同じ行動を取ってしまっている自分を自覚し、内心で舌打ちしながら、俺は素早く視線を走らせ、消毒液を探した。
「ムダだぜとっつぁん……。さっき覗いてみたけどヨ、ロクなもん置いてねぇんだよな……。モルヒネすらねぇんだから、参るぜ、まったく……」
 そう言いながら、傷が痛むのか、ルパンは大きく息を吐いた。
「見せろ」
 おれはベッドに座っている奴のシャツを鋏で切り裂き、撃たれた傷を露にした。
 ごくりと息を呑む。──思ったより、酷い。
 どうやら弾は貫通していないようだ。傷の位置から見て、内臓まで傷ついているに違いない。一刻も早く弾を摘出しなければ、それこそ命に関わる。
「とにかくこれでも塗っとけ!」
 そう言いながら、俺は奴の傷に消毒液をどぼどぼとぶっ掛けた。
「ぅあ……っ!」
 たまらずルパンが顔を歪めて苦痛の声をあげる。
 それには構わず、俺は奴の傷口に布を押し当て、手早く縛り上げた。だが、出血は止まらず、たちまち布は赤く染まってくる。
 ぐずぐずしている暇はなかった。
 奴の血に濡れた手を引っ掴み、腕を肩に回して立ち上がらせる。無理矢理引っ張ったせいで傷が引き攣れたのか、ルパンが小さく呻き声を洩らした。
「とにかくここを出るぞ。網を張っていないルートがひとつだけあるんだ。そこからなら……」
 ヒュウ、とルパンが弱々しい口笛を吹く。
「……いいの? そんなことしちゃってよ……」
「『困った時はお互い様』だ! いいから、来い!」
 それは何かちょっと違うと思う……とルパンが苦笑しながら呟いた。



 バタバタと部下たちが駆け回る足音。
「お前たちは三階を探せ!」
「はい!」
「それにしても……銭形警部は一体何処に行ったんだ。肝心な時に……!」
  お れ
 指揮官を欠いた状態のため、それぞれがてんでんばらばらに行動しているようだ。統制もまったく取れておらず、この分なら付け入る隙はいくらでもある。
(くそっ、何の因果でこの俺が、部下たちからこそこそ隠れなきゃならんのだ)
 だが、今はルパンをこのままにはしておけない。一刻も早くここを脱出させてやりたかった。
 部下たちの足音が遠ざかっていくのを確認し、俺はルパンの肩を掴んで声をかけた。
「よし、今のうちだ。もう少しで出口に着く。行くぞ、ルパ……」
 はっとして俺は口をつぐんだ。
 肩にかかっていたルパンの腕がずるりと力を失ってずり落ち、俺は慌てて床に崩れ落ちそうになったルパンの身体を受け止めた。
「ルパン!? おい、しっかり……」
 ルパンの顔色は更に蒼白になり、呼吸が浅く速くなっていた。
 弱々しい呼気を吐き出しながら、ルパンが小刻みに震え始める。
「……? 電気、切られてるのか……真っ暗、だ、な……」
 俺は息を呑んだ。電気など切られちゃいない。なのに……。
 もはや視力までも失われてきているとあっては、もはや一刻の猶予もないということだ。
「ルパン!」
「さ、むい……なん、で、こんなに……寒ィん、だ……」
 俺の腕にかかるルパンの重みが、更に増す。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ……!
 あれは夢だ、夢だったんだ、正夢なんて……冗談じゃない!!
「駄目だ! しっかりしろ、ルパン!!」
 切迫した俺の声に、ルパンは自分の置かれている状況を悟ったのか、ふ……と微かな笑みを浮かべた。
「そ……か、俺……死ぬ、んだ……な」
 俺はかっとなって怒鳴った。
「馬鹿野郎!! 何言ってやがる、お前がこんな傷ごときで死んだりするかっ!!」
「気休めは……よしてくれ…」
「うるさい、黙れ、お前は死なん、俺が死なせん!!」
 そうだ、こんな所で死なせてなどやるものか。
 正夢になどしてたまるか、絶対に……!!
 しかしルパンはいっそ清々しいほどの笑みを浮かべ、小さく首を振った。
「いい、よ、もう……」
「何がいいってんだ、何がっ!?」
「とっつぁん……の、腕の中で、死ぬって…のも、ある意味……最高の、死に方だと…思う、ぜ……? それに、これで……や、っと…」
 そこまで言って、ルパンはがくりと頭を垂れた。瞬間、ルパンの全体重が俺の腕にかかってきて、俺は一瞬息を詰めた。
「ルパン……?」
 どくり、と俺の心臓が大きな音を立てる。
「ルパン……!?」
 ゆさ……、と軽く奴の身体を揺さぶる。しかし反応はなく、俺の呼びかけに応えようともしない。
「おい……ルパン」
 尚も俺は奴の名を呼んだ。声が震える。
 こんな、こんなことが……!
「下手な……芝居は、よせ……。なぁ……ルパン、返事をしろ……」
 目の前がぼやける。知らず、涙が俺の頬を伝い、ルパンの顔に落ちた。
「ルパン……ルパ……」
 俺は震える手で奴の手首を取った。もしかしたらという一縷の望みを抱いて。
 ──すると。
「ルパン……!」
 俺は目を見開いた。確かめるように、奴の手首の動脈をなぞり、首筋の頚動脈にも触れてみた。
 ……脈は、あった。
 まだ、息はある。まだ間に合うかもしれない。こんな所でぐずぐずしてはいられなかった。
 俺はぐいぐいと袖で涙を拭い、ルパンの身体を背負って立ち上がった。
 出口はすぐそこだ。
(絶対に、死なせん……!!)
 俺は辺りに人気がないことを確認すると、出口に向かって走った。



 外に出ると、一台の小さな車が滑るようにこちらに向かってきて停まった。
 ──黄色のフィアット。ルパンの車だ。運転しているのは──次元。
 俺は急いでフィアットに駆け寄った。
「次元! 次元、ルパンが……!」
 忙しなく黒いガンマンの名を呼び、ルパンの姿を晒して見せながら、早く降りて来いとせっついた。
 だが、次元はルパンの血まみれの姿が目に入っていないはずはないだろうに、慌てず騒がず、いっそのんびりとした態度で車から降りて来た。そして、あろうことか、懐からペルメルの箱を取り出して、一本口に咥えると、火をつけて悠然と紫煙を吐き出し、深い深い溜息をついて俺を見た。
 そんな次元の態度に俺は苛立ち、次元の口から煙草を奪い取った。地面に叩きつけて靴底で乱暴に押しつぶしながら、次元に食って掛かった。
「てめぇ!! 今にも死にそうなこいつが目に入らないのか!? 貴様それでもルパンの相棒か!!」
「…………はぁ」
 次元は再び深い溜息をつき、哀れみを含んだ目で俺を見た。
「あー……まさか本当にあんたがコイツを連れ出してくれるとはね……。ありがたくって涙が出るぜ」
「何だと!?」
 今にも殴りかからんばかりの俺を見つめ、次元は肩を竦めてしみじみと述懐した。
「あんたもつくっづく人がいいよなぁ……まんまとそいつに利用されちまってよ」
「何……?」
 次元の言葉の意味を咄嗟に飲み込めずに、俺が問い返そうとした時。

 しゅ……っ!

「……!?」
 突然白い煙を顔に浴びせ掛けられ、俺は顔を顰めた。何をする、と言いかけて、俺は愕然とした。
 ──身体が、まるで硬直したようになって、身動きできなくなっていた。
 次元はますます気の毒そうな視線を俺に向けている。その手には何も握られてはおらず、煙を俺に浴びせたのはこいつではない。
 ……と、言うことは、だ。
「ムフフ☆ とっつぁんご苦労様ぁ〜♪」
 お気楽な声が、俺の背中から聞こえてきた。と、同時に、今まで俺の背中にかかっていた重みが、ふっと消えてなくなった。
「んも〜とっつぁんってば必死になっちゃってさあ〜。泣きながら俺の名前呼んでくれちゃってよぉ、俺メッチャクチャ感激しちゃったぜ〜」
「お……お……お〜ま〜え〜〜〜〜っ!!」
 さっきまでの息も絶え絶えな様子はどこへやら、ちゃんと自分の足で立ち、ケロリとした顔で笑っているルパンの顔を、俺は心の底から憎らしいと思いながら睨みつけた。
「お前……一体どんな手品を使った!?」
 傷を確かめた時、確かにこいつの身体には深い銃創が穿たれていたはずだ。溢れ出てくる血も本物だった。なのに、なのにこいつはどうして今、こんなくそ憎たらしい顔で俺の前に立ってるんだ!?
「あぁ……コレ?」
 ニヤニヤ笑いながら、ルパンは俺の至極もっともな疑問に答えてくれた。
 傷口の辺りに手をやったかと思うと、ルパンはおもむろにべりべりっと腹の皮を剥いだ。俺はぎょっとして目を剥いたが、すぐにそれが奴の変装道具の人工皮膚だということを悟る。
 そしてその下から現れたのは。厚さ数センチの肉の塊(多分豚か何かだろう)と、大量の血が詰められた袋。そして腹立たしいことに、更にその下には、防弾チョッキなんぞを着込んでいやがった……畜生!
 この野郎、最初っから俺をハメるつもりだったのか。
 普通に逃げることもこいつには出来たはずだ。なのにこいつはわざわざこんな手の込んだことをして、救護室で俺を待っていた。
 多分、俺がこいつを逃がそうとせず、そのまま逮捕に及んでいた時の対処法も、こいつは考えてあったに違いない。
 つくづく……つくづくこいつは憎たらしい男だ!!
「ま、そういう訳ヨ、とっつぁん♪」
 心底楽しそうにルパンは笑った。そのサル顔を思いっきりぶん殴りたかったが、生憎さっきあびせられた煙のお陰で、指一本動かせやしねえ。
「じゃぁね、とっつぁん。心配しなくても、10分もすりゃぁ身体は元通りになるからさ」
 そう言って、奴はひらひらと片手を振って、悠々とフィアットに乗り込んだ。
 次元は心底気の毒そうに俺を見つめて(それすらも今の俺には腹立たしいことこの上ない)踵を返し、ルパンの後に従った。
 身動き取れずに歯軋りする俺をその場に残し、フィアットはその場から走り去っていった。
「ちくしょおぉ〜〜〜!! 覚えてろよルパ〜〜〜ンッ!! 今度会った時はただじゃおかねぇからなぁ〜〜〜っ!!」



 俺の宿敵、ルパン三世。
 奴には情けなんかかけるもんじゃない。
 そう、しみじみと思い知った、夜だった。


ちゃんちゃん♪


この作品は以前私が同人誌で描いた漫画を元に
高峰さんが続きを書いてくださいました。
素敵な作品に仕上げてくださって、有難うございました!